五箇ふるさと祭り

 

 日本上流文化圏研究所のある薬袋集落は、昭和31年に合併して早川町が誕生するまでは、合併前の旧6村の一つ、五箇村を形成する5つの村の一つでした。
 この日は『五箇ふるさと祭り』。午前中は、やまびと講座02(テーマ:「道」)の体験プログラムで参加者とともに訪れた、五箇小学校及び五箇役場跡地(以下、跡地と記載)に祀られている山住神社で山神講、そして戦没者の慰霊祭がおこなわれ、午後は、上流研が管理している交流促進センター(五箇地区公民館)で敬老会を兼ねた親睦の会食が催されます。例年では、親睦会でスタッフ紹介やご挨拶をさせてもらうだけでしたが、今年は山神講と慰霊祭にも参加しました。

 

 もとの山住神社は、この跡地ではなく、沢を隔てた向こう側の尾根近くにあったそうです。さらに、跡地側の山の上にも山の神の祠があり、かつて五箇村の中心をなしていたこの場所に2つを移してまとめました。
 もとの山住神社にも参拝者は多く、祭事には出店もあったとか。「くじ神さま」の通称で親しまれていたそうで、この日の参加者のあいだで記憶されている中で、特に参拝者が多かったのは、第二次世界大戦の頃とのこと。爐じ運が良くなるように瓩函徴兵を免れたい当事者やその親族が足繁く通ったそうです。屋代には、実際にくじ棒が奉納されていたようです。

 

 

 山梨県内でも、このように地区で慰霊祭を続けているところは少ないようです。自然と、大戦前後のエピソードが語られます。以下は、そのメモ書きの主なもの。
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(学校のあった)この場所の上の方には、防空壕が7つか8つあった。その掘削作業に、自分も加わっていた。大きさは、4〜6メートルほども幅があった。1クラスみんなが入らなきゃいけない。大きなものだった。
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空爆なんて経験したことがないから、音を聞いても分からなかった。作業をしていたら、ガラガラーっと、鳴る。何が起きてるんだ? と分からなかった。そしたら雲の切れ間にB29が見えた。黒いこんなの(爆弾)が落ちていくのを見た。B29がいくつも爆弾を落とした。「隠れろー!」と言われたが、河原にいたから、どこにも隠れることなんかできないんだ。
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(早川本流の)河原に爆弾が落ちて、そんで慌てて、防空壕のあるこの場所に駆け上ってくるんだけども、爆弾が鳴ってからじゃ、遅いっていうことだよね。
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食べるものがないから、学校の時間に、アラク(畑)をやった。校庭を開墾した。下の方にもアラクがあった。広場(校舎跡)の上の山、尾根まで開墾して、大豆を植えた。学校でやるんだ。「そうじゃない」って怒られたっけ。 ※おそらく、五箇国民学校の実習農園のことだと思われます。
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 慰霊祭の後には、慰霊碑の裏に回り込み、戦没者の名前を見て、思い出を語り合います。みんな、笑い話のように明るく語るのですが、「ここだけで、こんなに亡くなってるんだものねぇ」という言葉に、胸が詰まりそうになりました。

 

 


 午後の部の会食もにぎやかでした。地元出身者ばかりでなく、近年移住してきた若い世代の家族も、自然とこの輪に加わっています。地域の皆さんのこの温かさに、上流研の業務も、少なからず支えられています。
 日本上流文化圏研究所も五箇地区の一員として、皆さんに喜んでもらえるような仕事をしていくべく、励んでいきたいと思います。まだ肌寒さの残る仲春の候、気持ち新たに、上流研の新年度もスタートです。

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